2016年08月16日

131:コピーは劣化版(3) 〜『兵法家伝書』「大機大用」現代語訳は誤訳では?〜


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 大機…仏語。大乗の教えを受け、それを実践する資質。また、その資質を有する者。⇔小機。
 (『デジタル大辞泉』より)

『兵法家伝書』の「活人剣−大機大用」の項では、「躰(事物・実体)」を通じて現れた働き・作用を「用」と呼び、「機うちに有りて、其用外にはたらき」と、「用」をあらわしはたらかせる、目に見えない根幹的な何かを「機」としております。
「機」が「気」に通じるためか、現代語訳の多くはこの「大機」を自在な心の働きあるいは機に臨んでの判断能力のようなものと説いているのですが、以前からどうにも腑に落ちませんでした。
 かいつまんでいうと、「やっつけてやろうという心=気(機)が実際の技(用)となってあらわれる。だから心はとらわれず自由自在に。すると技も自在の域になる」というのがこの項目の現代語訳大意です。
 正直、いかにも底の浅い薄っぺらな処世訓かなにかにしか思えません。
 本当にその程度のことしか書かれていないのなら、読みにくい古文を眠い目こすってまで学ぶ必要があるのだろうか…と、以前から疑問でした。
 田中光四郎先生は『兵法家伝書』を熟読して日子流に落とし込んでおり、自流派のより深い理解のためには絶好のテキストのはずなのですが、いけないとは思いつつ、この疑問を言い訳についつい楽な脳筋の稽古に流れがちな日々を過ごしては反省を繰り返しています。
 一方で『兵法家伝書』には「ひとたび優勢になったら決して手を緩めるな。(略)斬れても斬りそこなってもいいからとにかく息の根止めるまで打って打って打ちまくれ(※1)」的な、いかにも戦国生き残り世代らしいおそろしく凄絶な記述もあり、その柳生宗矩がそんな無用のことを書くのだろうかという違和感があったのもまた事実です。
 で、ひさかたぶりに読み返して気付いたのですが、これは全くの誤訳なのではないのか、というのが今回のお話。

「大機大用」の喩えのひとつに『梅の躰ある故に、躰より花さき色香あらはれ、匂ひをはつするごとくに、機うちに有りて、其用外にはたらき…』という文があります(岩波文庫『兵法家伝書』P.102)。この文脈から「機」に「心のはたらき」や「判断」という意を見い出すのは非常に難しい、というよりハッキリ言って無理があります。
「梅の躰のうち」にある「機」は、どう考えても「自然の理(ことわり)」と解釈すべきところでしょう。

 しかし「機」という語に、「理」と読み替えることの出来るような意味が含まれていたかどうか…。
 そこで調べてみるとあっさり。「大機」がまさしくそれでした。(上記『デジタル大辞泉』)
 その意味に照らして読むと解釈がガラリと変わってまいります。

『禅僧の自由自在に身をはたらかし、何事をいふも、何事をするも、皆道理にかなふて、理に通ずる、是を大神通と云ひ、大機大用と云ふ也。』
「大機」が「自在な心の働き」のように解されているのは、おそらく禅僧を例にとったこの種の文からくる連想でしょう。
 禅僧といえば雲水や仙人のようないかにも飄々としたさまがイメージされますが、しかし上記を訳すならば、前後の文脈から

『意識せずともあらゆる行いが理に適う境地を、「神通」といい、
神通の中でも、小乗でなく大乗の理に通じているさまを「大神通」と呼ぶ。
あるいはこれを大機とも呼び、大機は大用となってあらわれる』(改行)

…といった意になります。
 ここでいう「神」は、いわゆる人格神ではなく、天地(あまつち)の間の万物に宿る神性――すなわち「自然の妙」です。したがって「神通」とは「カミサマとの通信」的なデンパ系ではなく、「自然の妙の域にまで達しているさま」を指します。
 ならば文中の「大機」が指しているのは、「自然の妙に則りそれを実践する資質」がいかなるときも自然に発揮されている、というきわめて高度な境地のことでしょう。
『兵法家伝書』において「大機」が仏語本来の意味で用いられているのはこのように明らかであり、現代語訳に散見されるような「自在な心の働き」などというフワフワゆるゆるな意は決して読み取れません。(だいたい禅僧の修行は、一般にイメージされる心静かな座禅とはかけ離れたもので、その実態は、本来命がけの苦行です。)

『至極の人は、はらりとそれをはなるゝ也。自由自在をする也。
 (略)
 功をつめば機が熟して、わが躰にとけひろごりて、自由をはたらく、是を大用と云ふ也。』(同P.106)

 数え切れぬほどの反復練習は、固定した個々の技を修得するためではなく、それによって得た、体感を伴った深い理解により、ふとした動作のいちいちが自然と理にかなっている――そういう状態・境地を目指すためである、ということを解いているのが「大機大用」の項目なのではないでしょうか。(※2)

 と、まぁ結局このトピックの繰り返しとなるわけです。
「自分の卑近な理解に引き寄せての解釈」と言われればそれまでではありますが、しかし少なくとも「梅の躰」のくだりは、それ以外に読みようがないとも思っています。いかがでしょう。


※ 1…『一太刀打つてからは、はや手はあげさせぬ也。打つてより、まうかよとおもふたらば、二の太刀は又敵に必ずうたるべし。爰(ここ)にて油断して負也。うつた所に心がとまる故、敵にうたれ、先の太刀を無にする也。うつたる所は、きれうときれまひと、まゝ、心をとゞむるな。二重、三重、猶四重、五重も打つべき也。敵にかほをもあげさせぬ也。』(同P.42)

※2…ただし、項目の後半、とらわれず油断せぬ心づかいという意味での「気」を「機」としている文もあります。勝負論を含んだ日常の心がまえです。
 しかしながら項目全体のボリュームとしては、さまざまの例によって繰り返し解いている対象は、心がけ・心づかいではなく、大機と大用の「しくみ」についてが大部分であるように見えます。
posted by 秋山勇浩 at 00:43| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

130:コピーは劣化版(2)


「師を目指すのではなく、師の目指さんとするところを目指せ」

 この言葉を教えてくださったのは、新体道空手の師・花木哲男先生でした。
 当時20代だった私は、格好よい言葉だとは感じつつも、それは花木先生ほどの人が自らに課すべきことであり、先生に追いつくことすら遥か気が遠く感じられる自分にはとんでもなく大それたことのようにしか思われず、何故そのようなことを私に向けておっしゃるのか、まったく分かりませんでした。

 模倣は理念や原理を理解・体得する手段として行なうべきもので、模倣それ自体を目的としてはならない――黒岩洋志雄先生や花木先生はそのようなことを伝えたかったのではないかと、今ではそのように理解しております。
 (しかし憧れの先生がいればそっくり同じになりたいと願うのもこれまた人情というもので、その情熱を否定しては稽古の熱気まで冷めてしまいかねないのが難しいところではあります。)

 日々稽古をされている田中光四郎先生は、今もって技が変わり続けています。
 その変わりようは、他人の模倣のみならず、自己模倣にすら意味がないと考えていらっしゃるのでは、と思うほどです。
 私が日子流の門を叩いた当時、流派立ち上げ当初からの稽古生が「先生は先週と今週で言うことが違うからなぁ…」ともらすのを聞いたことがあります。
 そんなの当たり前のことではないか、と口にしたかしなかったか……確かしたのではないかと記憶しておりますが、先生が稽古を続けている以上は日々発見があり、その最先端を教伝くださるのだから、むしろありがたいことだろう……というのが私の正直なところでした。
 しかし今はそれとも少々違うように考えています。稽古によって技術の精度が上がるという以上に、その時々の肉体の条件にマッチするよう、理のあらわし方をアジャストし続けているということなのではないかと。
 実際、お若い頃の動画と比較するに、あらわれとしての姿は刻々と変えてはいても、理はまったく変えていないように見受けられます。
 逆にもし、70代半ばにある今の先生が40代50代の頃のご自身と同じように動いているとしたら、入力(身体的数値)が異なるのに出力(姿やフォーム)が同じであるということになりますから、公式ないしは途中式(理合)が誤っているということになってしまいます。
 
 合気道においては開祖・植芝翁のどの時期に学んだかで師範の系統ごとに全く技が異なるという状況下、「壮年の頃の植芝先生から学んだ〇〇師範の技術こそが本物の合気道で…」「いやいや老境に達し円熟の極みにあった植芝先生に学ばれた△△師範こそが…」という各派の主張があると、かつて合気道を学んでいた頃に聞いたことがあります。

 空手においては比較的メジャーなものに「騎馬立ちは膝を張るのか絞るのか」というテーマがありますが、私の学んだ系統では「前方に(体重移動の方向に)ただ落とす」というものでした。
 ここで、O脚の先生の騎馬立ちは外に張っているように見えますしX脚気味の先生のそれは絞っているように見えます。しかしながら2人の先生が表現しようとしている理は同じものです。「表に現れたかたち」に囚われ、それを真似ていたのでは働きを失ってしまうという好例のひとつでしょう。

 理念・原理は全く変化がなくとも、表に現れるかたちはこのように変化するもののようです。
 それらはいずれも「表に現れたかたち」に囚われた論で、見るべきは「かたちの依って立つところの理」なのではないでしょうか。

posted by 秋山勇浩 at 09:30| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月30日

129:コピーは劣化版(1)


 …というのは、格闘技マンガの定番ですね。

「誰それの作品はリアルだ」「あんなことはありえない」等々、格闘マンガといえば人気の作品には物議・論争がつきもののようですが、ありえないからマンガなのであって、フィクションをフィクションとして楽しむ分別が欲しいものです。
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」
 …とまでことわり書きがあるにも関わらず、それでも鼻息荒く角突き合わせたりする人が後を絶たないのは、読者のレベルもさることながら、もうその作家が見事なのだという他ないでしょう。
 見事だというのは、「本当らしい嘘をつく」という、作家に必要不可欠なセンス・技量に優れているという意味です。重ねて、描写が正確だという意味ではありません。

 しかしながらこればかりは的を射ているなと言わざるを得ないのが、「コピーは劣化版」という定番ストーリーです。
 主人公やライバルの熱烈な弟子や兄弟弟子がそっくりそのままの技やファイトスタイルで一時的に相手を翻弄するも、必ず最後は「しょせんは物真似」「オリジナルに及ばない」というノリで敗れる例のアレですな。

 外形を似せることの無意味さについて、合気道の故・黒岩洋志雄先生は、しばしば「形ではなく意味で覚えてくださいね」と口にしていらっしゃいました。

 そしてこうもおっしゃっていました。
「すぐれた技には、必ず<誰それの>という名前が入るんですよ」と。
 いわく、
 ―― 古賀の一本背負い
 ―― え〜と……
 ……あと誰だったっけかな。忘れました。

 黒岩先生が挙げた例が誰だったのか具体名は忘れましたが、アンディ・フグのカカト落としとか、吉田沙保里のタックルとかそういうことです。
 彼らの技術が独自路線だとか、ましてや我流だとかいう文脈ではありませんでした。
 普遍的な原理を高い次元で自分の体格・体癖にマッチさせることが大切で、結果として、優れて理にかなったその動きには枕言葉として固有名詞が付く、ということです。

 本当に受け継ぐというのは、表面的に似ている・瓜二つである、ということではなく、表に現れた姿や動きを通じて、その依って立つところの理念・原理を学び、それを完全に自分のものにする、ということなのだとおっしゃりたかったのではないでしょうか。

 結果的に、その姿は師と似てはいても同じでないものになるでしょうし、むしろそうでなくてはいけません。
 なぜなら、同じ公式に違う数値を代入すれば、解は自ずと変わるものだからです。
 正しく計算すれば異なる解になるのです。
 逆に、初期値が異なるのに解が同じだとすれば、それは途中式に誤りがあるか、そもそも最初の式が違っているということに他なりません。

 学ぶべきは式と解法であり、解そのものの転記・複写ではないということです。


posted by 秋山勇浩 at 08:49| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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