2016年11月03日

143:当たり前のこと――体重とか実戦とか(5)


 やはり「実戦」なんて言葉、使うんじゃなかったな……どうしても尻の座りが悪く、渋面とも赤面ともつかない顔をせずにいられません。早い話が「みっともない」の一言。
「”現実とか幻想とか”くらいにしておけばよかったな〜」とか今さらながら思うのですが、当初はそんなフレーズも浮かんでいなかったし、ここまで来てしまった以上は仕方ないので、一連の流れの最後まではこのまま参ります。よろしければ今しばらくおつきあいください。

 さて――、

 さんざん、ウェイトやパワーの優位について申してまいりましたが、しかし武道にあって体格・体重が絶対的なものかと言えば、それが関係ないという状況は確かに存在します。

 分野で言えば、たとえば剣術がそうです。あるいは弓道もそれに含まれるでしょう。

 体格・体重が関係ない…というよりは、意味をなさないと言い替えるべきかもしれません。
 その境界線がどこにあるかは明白で、「攻撃手段の殺傷力が人体の耐久力を大きく超えているかどうか」にかかっています。
 刀の斬撃を体格差で耐えることは不可能なので、必然的に理論と実践の乖離が少なくなります。
 最低限、刀剣を取り扱うだけの筋力さえあれば、あとは「技量の差≒戦力の差」と考えておおよそさしつかえないでしょう。(それでも鍔競り合いなど、直接的な刺突・斬撃以外の攻防では、体格が劣っていれば不利には違いないはずですが。)

 逆に、素手によってそういう攻撃力が実現されることは通常ありえないため、体格・体重は戦力の比較的大きな一要素となります。
 もちろん「一要素」であって、絶対条件ではありません。が、要素として大きいという事実から目をそむけるべきではないでしょう。事実の認識を避けて通ろうとするのは愚の骨頂です。
 もしこの要素からくる不利をひっくり返したいのならば、綱渡りのようにきわどく正確な体捌きが必要不可欠であり、達人思想派の方々は得てしてそれをよりどころにするものですが、残念ながら実際に打ち合った経験からくる危機感がないと、むしろ体捌きはぬるくあいまいなものになりがちな傾向があります。
 厳しい打撃の練習を抜きにしては、なかなかそのような一定の境地に辿り着くことが困難であるというのは、普通に考えればそういうものなのですが、一種神秘的な達人思想の信奉者はこうした身も蓋もない話はお気に召さないようです。
 事実、武道の世界では以前の記事(3)に喩えたような、経済学と実際の会社経営とを混同するかの如き奇妙な論が後を絶ちません。(試合など何らかのかたちでの闘争がある流派では、そういう論が顔を出すことはないようですが。)
 繰り返しますが、すぐれた経済学の理論は、必ずしも、実際の市場での成功を約束するものではありません。
 もちろん、だからといって学究型の努力が、実地の活動と比較して価値的に劣ると言いたいのではありません。
 むしろ普遍的な智恵の蓄積として、より尊いものでさえあるのではないかと、私個人はそのように思っているくらいです。(ここは人によって価値観はさまざまでしょう。)
 よろしくないのはその混同・錯覚であり、さらに言うならば、その錯覚に根ざした怠惰と傲慢です。

 武道の稽古をしている以上、「自分がものすごく強かったらいいなぁ」という想いは私だってあります。ないわけがありません。
 が、願望と事実の区別がつかないようになったりしたら、人間は終わりだと考えています。
 
 汗を流しているのは堕落のためではなく、成長のためなのですから。
posted by 秋山勇浩 at 10:09| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月31日

142:審査会(2)〜修得と運用〜


 どこもそうなのかもしれませんが、日子流の審査でも、たとえ技を間違えても止めたりやりなおしたりせず、とにかくそのまま最後までやりきることが重視されます。重視というより、不可欠な前提のようなものです。

 なぜ、何を想定しての前提なのか。

 技の「修得」過程においては、納得のゆくまで何度でも止めたりやり直したりするのがよいでしょう。
 手順を覚え、コツを飲みこみ、精度を高めるためには必要なことで、誰もがそうしているはずです。私も当然そうしております。
 が、「運用」すべき場面においてまでそのクセが現れるとなると話は別で、これは非常に危険なことです。

 そんなの当たり前だろうと思われるかもしれませんが、それは理性の話であって、人間、テンパっているときにはより本能的なものが優先されますから、抑えようもなく普段のクセが顔を出してしまうものです。
 普段の稽古で毎度々々「ちょっとイマイチだったな」と動作を止めて首をかしげている人が、いざというそのときだけは落ち着いてなめらかに最後までやりおおせる、などということはあり得ません。
 それが習慣というものなのですから、このことはよくよく心にとめておく必要があるでしょう。
 それどころか、

「どうもこの真剣の斬り合いというものは、敵がこう斬り込んで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬り込んで行くなどという事は出来るものでなく、夢中になって斬り合うのです。この夜も、私が無茶苦茶に暴れていると…

 ――『新撰組物語』(著:子母澤寛 中公文庫)より、斉藤一の談話


 さんざん場数を踏んだ人物でさえこうです(※1)。まして…と考えるべきでしょう。
 鉄火場においては自分が冷静でなどいられないだろう、それどころか自分を見失ってしまうことさえありえなくはない、ということを前提に習慣づけを行っておくのがよいと思います。(もしその気があるならば、ですが。)

 そこで結論としては最初に戻りまして、審査や演武のときはどうあっても技を中断しないことが大切とされるのは、単に見栄えがどうこうというより、こうした「運用」レベルのことを想定しているのだと思うのですがいかがでしょう、というお話でした。(※2)

 修得のための取り組み姿勢と、運用における心得は、このように別物なのですが、ともすれば混同してしまいがちなところのようです。気を付けねばなりません。


※1…それでも一瞬、我に返ったようで、「…敵の誰かが、そ奴は何か着てるぞ、斬らずに、突け突け!といっているのが、耳に入ったので、ようし突いて来るなら俺もこうしてやると決心した位のものでした」と続きます。
 集団での血みどろの殺し合いの真っ最中に正気に戻ることが出来たというのは、歴戦をくぐった経験の為せるところでしょうか。
 一方、われわれ通常の現代人で、ケンカ慣れもしていない人は、自分に対してあまりそのような幻想を抱くべきではありません。

 ※2…もちろん緊張のレベルとしては比較にすらなりません。しかし、この程度でテンパって動きが固まるなら実戦はおやめなさいという、師の優しさの現われのようにも思われます。
posted by 秋山勇浩 at 23:13| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月28日

141:審査会


 今日は日子流の平日クラスの審査会がありました。
 
 色帯の昇級については私に一任いただきました。
 まだ若かった頃、当時の流派で他人の昇級・昇段についてクダを巻いていた自分は、スジの通った考えを持つ純粋な稽古人のつもりでした。が、いざ任されてみると、そのときの考えが、無知からくる幼稚なシンプルさだったということを思い知らされずにはいられませんでした。それが正直な感想です。
 きっとあのときの先生方は、本当にあれこれ考慮していらっしゃったんだろうな……。

 たくさん考えてのことです。みなさんそれぞれに受け止めてください。
 
 ともに精進してまいりましょう。
 おめでとうございます!
posted by 秋山勇浩 at 00:54| Comment(0) | 稽古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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