2017年04月24日

148:黒岩洋志雄先生を偲ぶ会(2)〜教えの一端〜


昨年は日子流のパリ演武と日程まるかぶりだったため不義理をしてしまいましたが、今年は参加し、かつてお世話になった先生方や立教大学合気道会の皆様にご挨拶してまいりました。

10:00〜 東高円寺の本部道場にて日子流体術稽古(〜12:00)
13:00  西武池袋線 桜台駅集合
13:30〜 鍬守道場にて「輪の会」稽古(〜15:30)
16:30〜 お墓参り
17:15〜 懇親会
20:00(頃?)〜 二次会(〜終電)

――と、おはようからおやすみまでほぼ稽古&お酒の休日。
数年前から私よりも若い稽古仲間が痛風を発症しているのに加え、つい先週、また別のやはりまだ若い稽古仲間が尿路結石で悶絶したという話を聞いたばかりで、若干のおびえを胸にいだきつつの宴でした。
実際、ここでも同年代のNさんが痛風になったとからかわれてたり。

やな歳になったな〜。

さいわい健康診断では脂質代謝や肝機能を含め、今のところほぼ(※1)オールAを維持しておりますが、とはいえ油断は禁物ですね。
実際、ケガの治りとか目に見えて遅く…というかそろそろ治りきらなくもなってきてるような気がしないでもありません。地味にこわい。

はからずも辛気臭い健康の話題になってしまいましたが、歳相応に、まあまあこんなこともあります。
さて、肝心の稽古の終わりに黒岩洋志雄先生の高弟の先生から紹介された言葉で、心に響いた言葉がありましたので、備忘録を兼ねてひとつ紹介いたします。
たいへん大切なことであると思います。

「受けてよろこび、投げて感謝」

ずいぶん前にも、どこかで耳にしたことがあるような、ないような…おぼろげな記憶しかありませんが、確かその頃は「なんだその奴隷根性は?お遊戯のススメか」というのが正直な印象だったような気がします。「キレイごとですらない支離滅裂な言葉をありがたがって、バカじゃねぇのか」と。
実際に口には出さずとも、かつての私のそういう反応に共感を覚える方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

全く違う話でした。バカは私でした。
少々長くなりますが、こういうことのようです。よろしければお付き合いください。

先輩後輩で組んで技の反復練習をしているとしましょう。
後輩の技に対してポイントをずらして耐えることなど、先輩ならば出来て当たり前です。
しかし受けがそんなこらえ方ばかりしていると、相手は上達するどころか徐々におかしなクセが付き、進歩が遅れてしまいます。
人の上達の妨げになることが、先輩のあり方として正しいと言えるでしょうか?
技が思うように出来ないというのは、暗闇の中で手探りをしているようなもので、いわば八方塞がり、どちらにどう進んだらよいのか分らず気ばかり焦っている状態です。
そんなとき、30点の動きが40点になったところで崩れてあげれば、暗闇で向かうべき方角から呼び声があったような手応え・安心感を覚えるでしょう。
人を投げるのに最低限必要なレベルが50点以上だったとしたら、40点で転がるのはウソです。しかし、稽古ではこらえるのではなく転がってあげるのが上達の手助けになる瞬間というものがあります。
ここまでは、根性のねじ曲がったひとにぎりの人間以外ならば、たいていの先輩が、なんとなく無意識のうちにやっていることでしょう。
ここでさらに、40点が50点に近づくよう、自らの受けで正解のコースを相手の身体になぞらせてあげれば、それは手を取って夜道を導くのと同じことになります。これはきわめて有効な教伝法です。

黒岩先生は生前、
「(今は身体が悪くなって出来なくなってしまったけれど)昔は私が受けて(正しい)コースを作ってあげたから、そのころの人はあっというまに上達しましたねぇ…」とおっしゃっていました。
「導く」というのは、このように、受けがその身を以って取りの技術向上を促すことであり、間違っても、取りが受けを引きずり回すような、よく見られる「アレ」ではありません。(※2)

後輩が何とかして先輩を投げようと四苦八苦するのは大切なことです。一方、最初から優位な立場にある先輩が、後進との稽古に勝負の発想を持ち込むのは非常にみっともないことです。特に、組手でも乱取りでもない反復練習でそれをやることは、恥以外の何物でもありません(レベルの近い先輩後輩では必ずしもそうとは言い切れませんが…)
そんな薄っぺらい優越感を満たそうとするのではなく、一人でも多くの仲間が師の教えに近づけるよう微力を尽くすことこそが、弟子たる者の務めではないでしょうか……?

「受けてよろこび、投げて感謝」という言葉を、引きずり回されたあげくに転がされることを喜ぶような、奴隷根性の推奨や、見映えのする受けをとってくれてありがとうなどという八百長演武のねぎらいなどと捉えると、稽古はとたんに貧しくさもしいものになってしまいます。

受けを通した指導で相手を伸ばし、その成長を我がことのように喜び、だからこそ取りは、投げを行いながら相手に感謝の念をいだく ―― 同期やそれに近い先輩後輩の切磋琢磨とは違う、指導者のあるべき姿についての金言の一つではないでしょうか。

以前ここで紹介した「受身」のことと同様、視点を変え価値観を変え、取り組み方を変えねばならない重要な教えだったようです。
それが心に響いたというのは、私が多少なりとも正しく道を歩んでこれたことを意味しているのではないかと、終電で寝過ごして何駅か歩いて戻ったあげく、嬉しくてもう一杯あけてしまいました。

午前3時、無事帰着 ── そしてこんなこともあろうかと、翌月曜は午前休申請済。
一方、聞けば主催のZさんは1日休を申請済だったそうで、どうも道友というより類友のようですな。
ありがとうございます。おつかれさまでした。


※1…
唯一のBは心電図「洞性徐脈」ですが、20代の頃からずっとなので、たぶんスポーツ心臓なのだと思うことにしています。

※2…
あんなことは起こりえません。マンガではないのですから、鼻先にニンジンぶら下げられた馬のように付いてきて、あげく勝手に転がるなどという行動を、人が ――少なくとも敵は―― 選択することなど、ありえるワケがないのです。
もし意図的な八百長以外で起こることがあるとするならば、それは盲信に基づく自己暗示や、習慣によって染み付いた条件反射に他なりません。
仲間以外はそのいずれの条件も有してなどいない、という当たり前のことに気付くべきでしょう。

ちなみに、新体道でも似たようなことはしていますが、アレは全く別の話です。指導者は全員、そのへんをよく理解しているということを特に付記しておきます。



posted by 秋山勇浩 at 22:48| Comment(0) | 合気道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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