2016年10月31日

142:審査会(2)〜修得と運用〜


 どこもそうなのかもしれませんが、日子流の審査でも、たとえ技を間違えても止めたりやりなおしたりせず、とにかくそのまま最後までやりきることが重視されます。重視というより、不可欠な前提のようなものです。

 なぜ、何を想定しての前提なのか。

 技の「修得」過程においては、納得のゆくまで何度でも止めたりやり直したりするのがよいでしょう。
 手順を覚え、コツを飲みこみ、精度を高めるためには必要なことで、誰もがそうしているはずです。私も当然そうしております。
 が、「運用」すべき場面においてまでそのクセが現れるとなると話は別で、これは非常に危険なことです。

 そんなの当たり前だろうと思われるかもしれませんが、それは理性の話であって、人間、テンパっているときにはより本能的なものが優先されますから、抑えようもなく普段のクセが顔を出してしまうものです。
 普段の稽古で毎度々々「ちょっとイマイチだったな」と動作を止めて首をかしげている人が、いざというそのときだけは落ち着いてなめらかに最後までやりおおせる、などということはあり得ません。
 それが習慣というものなのですから、このことはよくよく心にとめておく必要があるでしょう。
 それどころか、

「どうもこの真剣の斬り合いというものは、敵がこう斬り込んで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬り込んで行くなどという事は出来るものでなく、夢中になって斬り合うのです。この夜も、私が無茶苦茶に暴れていると…

 ――『新撰組物語』(著:子母澤寛 中公文庫)より、斉藤一の談話


 さんざん場数を踏んだ人物でさえこうです(※1)。まして…と考えるべきでしょう。
 鉄火場においては自分が冷静でなどいられないだろう、それどころか自分を見失ってしまうことさえありえなくはない、ということを前提に習慣づけを行っておくのがよいと思います。(もしその気があるならば、ですが。)

 そこで結論としては最初に戻りまして、審査や演武のときはどうあっても技を中断しないことが大切とされるのは、単に見栄えがどうこうというより、こうした「運用」レベルのことを想定しているのだと思うのですがいかがでしょう、というお話でした。(※2)

 修得のための取り組み姿勢と、運用における心得は、このように別物なのですが、ともすれば混同してしまいがちなところのようです。気を付けねばなりません。


※1…それでも一瞬、我に返ったようで、「…敵の誰かが、そ奴は何か着てるぞ、斬らずに、突け突け!といっているのが、耳に入ったので、ようし突いて来るなら俺もこうしてやると決心した位のものでした」と続きます。
 集団での血みどろの殺し合いの真っ最中に正気に戻ることが出来たというのは、歴戦をくぐった経験の為せるところでしょうか。
 一方、われわれ通常の現代人で、ケンカ慣れもしていない人は、自分に対してあまりそのような幻想を抱くべきではありません。

 ※2…もちろん緊張のレベルとしては比較にすらなりません。しかし、この程度でテンパって動きが固まるなら実戦はおやめなさいという、師の優しさの現われのようにも思われます。
posted by 秋山勇浩 at 23:13| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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