2016年10月14日

138:当たり前のこと――体重とか実戦とか(3)


 なかなか思うように体重が増えません。

 私も大概いい歳なので、こんなことを口にすると、奇異なものを見るような視線を向けられますし、むしろそれがもっともなのですが、わりあい切実な事情があります。

 理想的に動くことが出来れば、技に必要とされる力というものは感触として驚くほど少ないものですし、体格に依存することもほとんどありません。そして上手く動けたときの手応えには言葉にしがたい達成感があり、その喜びだけを目的に稽古をしていたいという欲求もあります。
「実戦が云々」などと口にするのは、歳だし今さらだしそもそもキャラじゃないし。(※)

 しかしそれはつまり、理想的に動けず無駄が生じたときは相当な力が必要とされることを意味します。
 それが稽古でなくもし争いの中でだとしたら、だからといって「もとい」と宣言してやり直すわけにも行きません。無駄でも不恰好でも何が何でも、とにかくやり通さねばなりません ―― 実戦には間違いなくそういう一面があるでしょう。
 
 そもそも理想とほど遠いやりとりのあげく争いになるのであって、なのに最終フェイズである争い事だけは何故かスマートかつ理想的にコトが運ぶ……という仮定は、いささか虫の良い願望であるように思われます。

 たとえば経済学は、研究室では純度の高い理論を構築できても、実際の市場経済は理論にしたがって推移などしてはくれません。
 理論的には余分な在庫や現金をダブつかせることなく資金を回し続けるべきなのですが、突発的な商機を逃さないためには在庫が必要だし、予備資金が不充分だとコケた取引先のあおりをくって連鎖倒産してしまうこともあるでしょう。
 そう考えるならば、「ものごととは理想的に進展してはくれないものである」ということも含めた想定をして初めて「備えが出来ている」ことになります。仕事や日常ではことさら言うまでもない当たり前のことでしょう。
 予備戦力ゼロなどというタイトな作戦を立案する参謀は軍隊にはいないはずです。
 仮にそんな案があったとしても、私はそんなものに自分の生命財産を預けるのは断じて御免こうむります。採用されたその瞬間に敗戦が約束されたようなプランであるのは火を見るより明らかだからです。
 集団の戦闘においてはこのように自明のことであるのに、個人の戦闘では、作戦本部であるところの頭脳は何故かこうした誤りを犯しがちです。

 理論の追及か現実的な備えか ―― 実際は極端な二者択一ではなく、その間のどこらへんに軸足を置いて取り組むか、要はあんばいであり、そこは各人各様であってしかるべきなのではないかと思います。

 ただ、稽古や身体作りの内容が純粋な理論追求のみであるにも関わらず、それをもって現実的な備えのつもりでいるとしたら、経済学者が自身をカリスマ経営者と勘違いしているかのごとき滑稽さがあるのではないでしょうか。
 そのような勘違いをする経済学者はいないと思われますが、武道関係者にはしばしばそれがあるように見受けられます。(私自身、恥ずかしながらこのあたりの整理が不充分だった時期が短からずありました。)
 よくよく注意すべきことでしょう。自戒も込めてそのように思うところです。


※…正直なところ「実戦」という言葉を口にすること自体、幼稚な勇ましさの発露のようで、心中、少なからぬ抵抗があります。
 そう思ってこのブログに検索をかけてみると、やはり数えるほどしか用いておらず、しかも一部は「(ごく限られた状況を除き)実戦など許されない」という文脈でした。今もその考えは変わりません。
posted by 秋山勇浩 at 23:39| Comment(0) | 日記・雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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