2016年03月01日

100:受身のこと(3) 黒岩洋志雄先生を偲んで

 今年も黒岩洋志雄先生を偲ぶ稽古会が催されるのですが、ちょうどそのタイミングに、パリで開かれるマーシャルアーツ・フェスティバルで日子流の演武があるため参加することが出来ません。残念です。

 当ブログの過去記事や、合気道 輪の会様の記事にありますように、黒岩先生は黙祷のようなことはなさらず「その人のことを思い浮かべながら稽古をするのが一番の供養なんですよ」とおっしゃって淡々と稽古に入る方でした。
 今年の「偲ぶ稽古会」には参加出来ませんが、そのお姿にならいここで少し黒岩先生の合気道について思い起こし語らせていただくことで、もって私なりの御供養と致したく存じます。

 折しも前回、四方投で相手が回ってしまい投げそこなうというケースについて触れたところですので、それともからんだお話を。 
 まずは前提として「030:受身のこと(1)」をご一読ください。

 簡単に申しますと「相手が当方を崩そうとし、技を施そうとする際、その方向へ先回りするように身を運んでしまえば技が技として成立しない。その踏み込みこそが受けの身ごなし、すなわち受身である」という話です。
 受身とは受動的な衝撃緩和動作ではなく能動的な予防・相殺動作のことである、という点にご留意ください。

 今回はそこから一歩進めて、ならば「受身をとらせない」とはどういうことなのか、について考えてみたいと思います。
 黒岩先生はかつて「技をかけるときに大事なのは──」と、両手で直径数十cmほどの円をお示しになりながら「相手の足をこの小さな土俵から出さないことです」とおっしゃっていました。つまりは「足を進めさせないこと」であり、先の前提と合わせ考えるならば、それがすなわち「受身をとらせないこと」であると言えるでしょう。
 
 人間はバランスを復元するために足を進めます。
 あたりまえの本能的な感覚であり、それを技術として身を運ぶ踏み込み動作にすれば「受身」になります。
 となれば「受身不能な状態」とは、「崩し」において受けの踏み込みをゆるさない「居着きの強制」に他なりません。
 この原則から照らすと「投げの際に関節を極めるの極めないの」という論は些事にすぎないということがお分かりいただけるかと思います。
 関節を極めていようと受身が取れるときは取れますし(※1)、極めておらずとも取れないときは取れません。
 その差がどこにあるかと申せば、「居着かせているかどうか」にあります。
「小さな土俵から出させない」ことの重要さが分かります。

 そして如何にして居着かせるか、と言えば、ひとつには「肘の操作」が有効です(※2)。
 これは「020:閑話休題(合気道のお話し)」にアウトラインを記しておりますが、その中の「(1) 崩される側の体勢についての整理」について加筆いたします。

 これもよく黒岩先生がお示しになったことです。
 両腕をもって「輪」を作り、それが傾くさまを思い浮かべてください ―― 当然のことながら傾きが一定以上の角度になれば不安定になります。

 図を描くのが手間なので、息子の昔の玩具を拝借。
 輪1_R.JPG
(安定した状態)

 輪2_R.jpg
(安定と崩れの境界)

 輪3_R.jpg
(崩れた状態)
 
 このとき下になった側の腕は、肘がミゾオチ方向にへこまされるような形となり、これが「横の崩し」、上になった側の腕は肩の三角筋が頬に押し当てられるような形となり、これを「縦の崩し」と呼びます。
 縦の崩しはまたの名を「上段の崩し」ともいい、上段があるということは中段、下段もあるということで、上から順に一教(上)、二教(中)、三教(下)。そして四教は三教の裏です。
 また二教こと中段の崩しはすなわち奥行きの崩しでもあり、「輪」をつぶしたり引き伸ばしたりする崩しの動作を指します。
 これら一連の「縦の崩し」に対し「横の崩し」の体勢は、ここから四方八方に技が展開する根幹部分であり、「四方投」という名の由来はそこにあるのだと、黒岩先生はおっしゃっていました。
 横の崩しから上段への攻めが入り身投、下段への攻めが回転投、間が遠ければ小手返…etc. その代表的なあらわれが、いわゆるあの「四方投」であり、これは間が近い場合、という説明でした。

「相手の腕をくぐるのが四方投」なのではありません。
「四方投の流れで腕をくぐる技もある」 ―― そう考えれば、いわゆる「四方投」で絶対に欠かせない要素が何なのかは自ずから明らかでしょう。「横の崩し」です。
 というより、四方投げとは横の崩しのことであると、はっきりおっしゃっていました。
 この崩しを行わず、また居着かせもせず技を施そうとすれば、それはくるりと逃げられもしてしまうことでしょう。
 これは逃げるという意識的なものですらなく、人体の構造上、水が高きから低きに流れるがごとく自然に起きる現象であって、そうならないよう相手にルールを押し付けるのはスジ違いというものです。(※3)
 くるりと回られて投げそこなう四方投失敗の原因はここにあります。
「四方投げがうまくゆかない」というより「四方投げをしていない」のですから、理の当然です。

 このように、手首の関節技に目がゆきがちな合気道ですが、その要点は肘を通じたバランスコントロールにあります。
 これこそが崩しのキモで、たとえば小手返しなどは一見しますと手首を攻める関節技以外の何物でもありませんが、横の崩しの中で施すべき技法であることは明らかです。でなければ手首の丈夫な相手にはかかりません。
(私は逆に、小手返しで手首を極めずに投げることも出来ます。稽古生の中には手先を大切にする職業の方もいるため、手首をゴリゴリ痛めつけるような技を使うことがためらわれる場合もあるのです。)

 以下に引用する養神館 塩田剛三先生のお言葉は、目指すべき方向性として、けだし名言でありましょう。

「内弟子として鍛えている連中の手首をいくら逆にきめようとしても、そうそう簡単には(略)
 それでも私は彼らを二ヶ条の技で崩します。(略)
 痛くなくても相手が崩れる。そこに合気道の本質があります。関節技の稽古はそこに至るための入門第一歩だと考えてください。
 いつまでも稽古相手を痛がらせて喜んでいるようでは、永遠に合気道の高みに到達することはできません。」
公益財団法人 合気道 養神会HPより。出典の『合気道修行―対すれば相和す』は版元に在庫なしのため掲載ページは手許で確認できず。)

 関節を極めて投げる、というのは理解の助けではあっても目的たりえないと、ここにはっきり明言されています。

 そしてそうした高みへと続く道程を照らしてくれるのが、黒岩洋志雄先生がお示しになった教えの数々 ── 「輪」の崩しの理論や「受身」と居着きの理論、またここでは触れませんでしたが「虚実」の理論など ── であると私は確信しております。
 黒岩合気についてお話ししてまいりましたが、その内容は「〇〇流の特徴が」とか「〇〇流においては」といった枠にとらわれることのない、どころか合気道という枠さえ超えた、「人体のしくみ」という普遍的なものに関する深い洞察と高い知見です。むしろこうした普遍性を高度につきつめたものこそが黒岩合気であるともいえます。

「合気道は "あたりまえのこと" だから素晴らしいんですよ」黒岩先生は常々そうおっしゃっていました。(私はこの「あたりまえ」の意味するところを「普遍性」と理解しております。)
 
 黒岩洋志雄先生という稀有な武道家に引き合わせてくれた道友・Z氏や、部外者の私にも分け隔てなく親切に接してくださった高弟の先生方、先輩方、立教大学合気道会の諸氏に感謝の意を表するとともに、また黒岩合気の灯火が途絶えることなく受け継がれてゆくことを祈りつつ。


2016/03/01 秋山 勇浩


※1…現に私は演武で肘の極まった逆一本背負いの受身をとっております。
 このとき仕手の武内師範は、演武であるため肘は極めつつも私が身体を運ぶスペースを残してくれていました。
 この場合のスペースとは縦方向、「高さ」です。
 ここで低く投げられると、肘を守るために身体を運べば脳天が床に叩きつけられ、頭を守るため身体を運ばずこらえようとすれば肘が折れ…と、「王手飛車取り」の状態となります。
 これが、「受身の不能な状態」の一例です。
 このことからも、カギは関節技そのものではなくスペースの有無だということが分かると思います。

 注釈のそのまた注釈になりますが、そういえば黒岩先生の昔の演武の解説に「空間をパズルで埋めてやればいいんです」というお言葉がありました。
 なるほど隙間を埋められてしまったら、安定のために身体を運ぶことも出来なくなる道理です。


※2…当然それだけではありません。もっと直接的に「足を踏む」というのも非常に有効な手立てです。
「足を踏むということは絶対的な有利を意味するんです」と黒岩先生はおっしゃっていました。
 昔は「えげつないけれどそういうこともあるんだな」くらいに受け取っておりましたが、「受身=足の運び」という視点から見直すと、印象がまったく違ってまいります。
 ちなみに日子流の目録技にも、まさしく足を踏むところから始まる技があります。当然、期待する働きは同じです。


※3…信じられないことに、道場によっては、技にならないから「回るな」とおっしゃる先生や先輩がいるそうです。私の立場からはこれ以上何も申し上げることはありません。それぞれにお考えになるべきことでしょう。    

posted by 秋山勇浩 at 22:36| Comment(2) | 稽古 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは。

なかなか興味深い内容ですね。

「崩し」は私にとってひとつの壁でした。
ご記憶にあるかどうかわかりませんが、
恵比寿時代に秋山さんに相談したことがありました。

非力なくせに力で崩そうとしてしまう。
力が伝わって相手がふんばる。
当然の如く崩れない。
サイボーグIさんなど微動だにしなかったと思います。

いわく居着かせることができていないのでしょう。
肘の使い方…う〜ん、そうですか。

小背負いなども横の崩しをもっと意識してやれば、
楽に決めることができたのでしょうね。

…小手返しは手首を極めるのではない。
そこに崩しがなければならない。

人体力学、ふむふむ、…奥が深いですね。
Posted by TETSUO ISHII at 2016年03月02日 21:16
TETSUO ISHII 様

コメントありがとうございます。
恵比寿での稽古、懐かしいですね。

覚えています。
たしか上の記事と同じようなことを、稽古場違いの内容なので遠慮気味にサラッとだけ紹介したのではなかったでしょうか。


> 小背負いなども横の崩しをもっと意識してやれば、
> 楽に決めることができたのでしょうね。
おっしゃる通り「小背負い」は横の崩しの分かりやすい例だと思います。


逆に私の類推が外れた例としては「手掛け手首折り」があります。
崩しとしては二教・奥行きの崩しからの技なのに、手首の極めが合気道で言う「小手返し(※横の崩しからの技)」に
似ていたため、しばらく混乱がありました。
思い込みがあると表層的な部分にとらわれてしまい理解を遠ざけるので、自分の中にある知識は知識としていったん置いておき、素直な心で見たままのものを見ることの方が重要なことも多々あります。

このへんのあんばいは意外と難しく、最近では、偏見に凝り固まった推理をするくらいなら、いつか「わかった瞬間」に自然とつながって見えてくるものと割り切って、うかがったコツをただただ繰り返してゆく方が却ってずっと
良いのだろうということも分かってまいりました。
Posted by 秋山 勇浩 at 2016年03月03日 17:32
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